イシスの息吹

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見えないけれども大切な感覚

最近、テレビを見ていて気がつくことの一つに、会話を字幕にしていること。 以前は、私が思い出せる限り お笑い番組で強調したい部分を字幕にしていたように思う。 その頃から「鬱陶しい」と思っていたが、 ここ最近は、事もあろうに民放は報道番組までが字幕を使っている。

もしも、耳の不自由な方に向けたものであるなら申し訳ないが、 その為だけとはいえないような気がする。 以前は鬱陶しく思っていた私も テレビをデジタルハイヴィジョンにして、「字幕が切れて読めないなー。」と感じて初めて いつの間にかそれを読んでいたことに気づき 唖然とした。

これはどういうことなのだろう? ここにもまた「おくゆき」を平面化する現代文明を感じずにはいられない。 本来ならば、実際に会って人の話を聞き、その言葉の背景にあるエネルギーを感じるのが一番いいが、テレビは普段会えないような人の話も伝えてくれる。 テレビの向こう側にいる人のエネルギーを字幕が阻んでいるように思うのは私だけだろうか? 便利さの裏には、「読み取る」「感じ取る」という人間ならではの素晴らしい感覚をどんどん退化させていく怖さを感じさせずにいられない。 見えないけれども大切な感覚のなかにある宝物に現代文明はいつ気づくのだろうか?

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