ブループリント論 4
大いなるものを前にした時、
その前にひれ伏せずにはいられなくなるのです。
ですから、
もしも、
「自分を固守したい。」
「自我の次元での自己実現をしたい。」
と、
思っていらっしゃる方は、
「大いなるもの。」
と、対面していないのかもしれません。
大いなるものは、
はじめ人間としての
「師」
の姿で現れるかもしれません。
これは、先日のお稽古の時にも感じました。
末席に加えさせて頂いている武術のお稽古は、
これでもかと言わんばかりに、
通常の人間がしないような動きをミチミチと積み上げていくのです。
既に筋肉痛のからだを引きずりながらの帰り道、
先輩に、
「こうして歩いている時も、もしかして緩んでないのですか?」
と伺うと、
「足の裏は意識していますね。」
との事。
私なんて、お稽古が終わった途端に、
「やった〜!」とグズグズに解放するのに・・・
日々、お稽古に励んでいらっしゃる諸先輩方は、
緩める事が無いようです。
とても超えられない
「師」
を前にすると、
自分を明け渡して、
ただただ、その道に沿って進んでいく。
私の武術の師は誰もが認める、大きな存在です。
こうした「師」に出会える事は、
本当に幸せな事です。
そして、恐らく「師」は、
大元の存在の大きさも良くご存知なのだろうと思います。
刀とブループリントのラインは何か類似性を感じるのです。
私が見えない世界を認識するようになったとき、
それを表す言葉が見つからず、
アレックス・グレイの作品を見た時に、
「同じ世界を見ている人がいる。」
と、安堵したのを覚えています。
気がついてみると、実は様々なものの中に、
ブループリントに導かれて物質の世界に現れたものがあるように思います。
そして、それを生み出す人は、
恐らく、大いなるものの前にして、
自らを差し出し、
大いなるブループリントのラインを感じながら、
生きていらっしゃるのでしょう。