お鍋の底をこそげ落とす日
自分のことが、実は一番見えないのかもしれない。
他の人の事はわかったつもりになっていても、他の人が自分の事を評してくれることには良い部分も 見なければならない部分も
「そんな感じに見えているの?」
と新鮮な驚きがある。
しかし、この相手の中に内在化する光に気づくためのお互いにとって安全な空間は、一石二鳥に作り上げられるものではない。
長い年月をかけて様々な障害に躓きながら築かれていくような気がする。
また、行く先を見据えている所が共感できるところでなければ 難しいかもしれない。
そんな空間を持てている事はとても幸せなことであり、
そこで、時に激論を交わしながら編み上げられていく場は、新しい自分に懐中電灯で光を当てているような感じがする。
全体像は見えないのだけれども、こちらに進んでいくのかな? というような感覚だ。
そこには、上下の関係性はなく 皆が同じところに立っている。
しかし、相手に対する揺るぎない尊敬の念がある。
その中にいると、脳がマッサージされて活性化されていくような心地よさを覚える。
エネルギーもいつも使わないところが引き伸ばされて活性化されていくような感じ。
自分自身である事を許してくれる。
自分の「今」ある位置を映し出してくれる。
私以外のメンバーが寛いでいる姿を見て
何だかとても感動した。
それぞれが しっかりと自分の足で立ち、それで居て「良い感じの空間」が保たれている。
彼らとの関係性は、恐らく自分が自分とどの位関わっているのか、深く入っているのかのバロメーターになっているように思える。
わたしの課題であり「いい加減に見なさいよ!」と思いつつ見ないふりし続けたところを お鍋の底をこそぎ落とすかのように掘り起こしてくれた。
恐らく、今でなければ許されない空間がそこにあり、
今年のラストスパートのこの時期 こうして深いところを語り合えたことは 何よりのご褒美かもしれない。