滴の清澄さ
最近、タロット関連の本を読み直す機会があり、
あまりに重く、漬物石のような
サリー・ニコルズの本も再度読みかえしていたら、
数年前の本にかかわらず、とてもタイムリーな記述が目に付いた。
山崎さんの的を射た解説のあと、彼が画面からしばらく遠ざかってしまったように感じるのも、
を見て、
「そうそう、そうなのよ。」と思いつつも
次には、「ここまで語っているのにね・・・」と、
大きな勢力にたいしての無力感を奥のほうで感じる。
「この科学と言う魔法に対しても、それを悪用することの恐怖に対しても、私たちのうち誰も個人的には責任はない。しかし私たちすべてが集合的にこの重荷を負わなければならないのである。物質中心主義や、貪欲さ、復讐心へと縛りつける現在の拘束から、自らの善良な霊を解放しなければ、必ず私たち自身の黒魔術によって必ず破壊されることだろう。11時間目に私たちはなんとかしてわれらがプロスペロを助けて、通常の人間性という本国へ帰っていく道を見出さなければならない。(注・テンペストより)
私たちはほとんど皆この状況に無力感を感じている。そして恐らく、平均的な人が直接的に権力の上層部に変化を引き起こせるということは、ほとんどないと言ってもいいだろう。本当に私たちは大きなバケツの中のほんの小さな滴にしかすぎない。しかし幸いなことに、小さな滴がもつ清澄さと、全体としての集合的な水との間には、直接的なつながりがある。自らの個人的な生活の中で、小さな黒い投影という快い魔法に別れを告げるたびに、あるいは復讐へと向かう邪悪な誘惑を放棄するたびに、世界の意識は浄化され、私たちの惑星の上を漂っている黒い影にも光がさしてくるのである。ピーターパンのように、時間をかけて自分自身の小さな影を引き戻し、自らの小さな自己にしっかりと縫いつけていく、そのたびに私たちは、世界の惨状を修復するために、自分自身でできると思っている以上のことを、なしていることになるだろう。」(サリー・ニコルズ ユングとタロット 元型の旅より)
これは10年以上前の著述だけれども、
「いまは、そんな無力感を感じている暇はない。」とささやかれたようにも、
分厚い本の中のこのページを開いたこともユングの言う「共時性」のようにも感じた。
うお座時代のヒエラルキーを未だ手放せずにいる上層部がいる社会。
子どもたちの未来の為にも、滴の清澄さを大切に日々を生きなければ と改めて思うのでした。