拘束する。
色々重なり、久しぶりに武術のお稽古。
諸先輩方のピシッとした空間のお邪魔にならないようにと
息を潜めて道場に入っていく。
一番最初に教わった立禅が私は本当に好きなのだ。
一見「サボっているのか?」と思われそうなほど、動きは小さいのだけれども、
少しずつ少しずつ、自分の中に眠っていた筋肉が目覚めだすのが分かってくる。
単純で小さな動きを繰り返すうちに瞑想しているような感覚になってくる。
動いているのが私なのか、動いているのを見ているのが私なのか、
身体の中にいるのが私なのか?
本当に楽しい。
今日も先生から深い言葉をいただいた。
「拘束はいいものなんです。」
関節の稼動域を拘束することによって「経」を通す。
数ヶ月前に説明を伺ったときには、何のことかよく分からなかったのだけれども、
だんだんと仰ることがわかってきた。
そういえば、カバラの「褒める修行。」でも、
自分の中の拘束度に応じて、褒めることが容易くも難しくもなる。
自分と相手との関係性が自由であればあるほど簡単に褒められる。
しかし、関係性に拘束度が増すほど難しくなる。
親兄弟、長年連れ添ったパートナーなどはよい例になる。
簡単な一言が中々口に出せない。
これは、国や文化によっても勿論違うだろうけれども、
「気配を察する。」事を身につけた日本の環境では難しい。
一見簡単に見えるが根深いテーマをクリアすることにより、
その奥にある本質に近づいていくことになるのは共通してるように感じる。
毎回、何気なくポソッとおっしゃる一言が何時も奥深くまで響く名言である。