恩寵1
答は一つではない事を、
以前にも話したと思うが、
カバラの生命の木を見ていると本当にその事が目の前に如実に現れてきて面白い。
物事を学ぶ時に、その人(魂)の進捗度によって、その答えは自ずと違ってくる。
一本の木の中でも自分が浮かび上がってくる。
現在の状況、欲望、知性、情念、という物質的なところに近いレベルから、
もう少し、心理的なところ、良心、慈悲心、
更に、霊的なところとの関係性が見えてくる。
ある物事に対して、自分の中で木を立てていくと、
自ずと自分の中の盲点がその先へ行かせない力となって立ちはだかる。
違うテーマで木を立ててみても、やはり、立ち止まるところは同じところになる。
そのテーマに取り組み、手放すことが出来た時、また、違うテーマが浮かび上がってくる。
まさに原初の渦巻き、らせん状に、進んでいく。
そして、上下のレイヤーの他にも、奥行きのレイヤーもある。
この木を何百本か立てて初めてこの木が理解できるという。
自分のテーマを中心に持ってくるのだから、目をそらさず、コツコツと積み上げていくことこそが「魔術」を知ることの正体なのだろう。
そうした時に、立体的な木が自分の中で立ち上がり、
と、同時に自分という存在が3次元のみならず多次元、無限であることが
「ここにある」事がゆるぎないものとして ここにあった事が思い出されるのであろう。
実際の、クラスの中でも 質問の答は一つではない。
受け取る側の今の状況によって、それを見極めて答えていくことが必要になってくる。
肉体的なところに存在している教師は、肉体的な答を用意してくれるだろう。
心理的なところもしかり、
エネルギー的なところもしかり、
しかし、最終的に良い教師とは、相手の物質的に見えている所だけではないレイヤーを掴み、どの部分からの質問であるのかを見極め、
ガイダンスに繋がり(それは自分だけが得られるというエゴに基づいた特定のものではなくすべての根源であるところのガイダンス)答えてくれる存在なのだろう。