インドのリトリート3
早速、リトリート開始前夜から瞑想。
時間の五分前には瞑想に入れる状態で座っていないければいけない。
遅れてくる者は入ってはいけないのだ。
だから、彼が入ってきてもじっくりとその姿を見ることはかなわず、ちらりと薄目を開けて見てみる。
10年前の写真からは想像もつかない貫禄。
別人のようだ。
山のように大きくなっている。
身体もエネルギーも。
「来たな~。」という気配がしたあたりから、あたり一面のエネルギーが広がり始める。
当日は満月まであと一日のあたりだったのだが、
私は、月まで届きそうなほど大きくなるのを感じる。
まるで、アリスが「私を食べて」というクッキーを食べてみるみる大きくなったかのように。
そして、大きくなった私のエネルギー体の中には様々な私の過ごしてきた過去の人生が繰り広げられている。
まるでテレビでチャンネルを選ぶかの如くいくつもの人生が手の取るように広がっていく。
以前見た映画の中で、主人公が追っていた玉が映像の記憶装置でそれが開くと次々と映像が繰り広げられるようなそんなはっきりとした感じだ。
私は、催眠療法を仕事にしているけれども、自分の前世には全く興味がなく、頭痛のときくらいしか見て見ようとしたこともなかったけれども、ここまではっきりと繰り広げられると「そうなのかもね。」と思わずにはいられなかった。
ファルーカ(エジプトの風で動く帆船)にのってナイル川を横切ろうとする若者の人生では頬に受ける風や水しぶきを味わい、アフリカでの開拓民時代には、焼けつくような日差しと乾燥した大地を味わい、中国での修行僧の時代には、自分自身が戒律という箱の中にとらわれ息つくこともできない苦しさを味わい、また、色とりどりの花が咲く台地でただ自然を楽しむだけの人生を味わい、それ以外にもジャラジャラとおつりが出そうなくらいの様々な人生が繰り広げられている。
2nd の瞑想では、うって変わって下に下に吸い込まれていくようなエネルギーに圧倒される。
下には別の次元が広がっているような感じで、確かにそこに存在しているものがある。
しかし、これを3次元の言葉で説明してしまうことがなんとも薄っぺらいものになってしまう。
10年近く前に彼の本を読み、見よう見まねで瞑想をして、この状態に近いものすごいエネルギーの世界に圧倒された後、「これは何なのだろう?」とどこに聞くともなく聞いていた時に、初めて私はこの物質界にはない声を聞いた。それがこのブログの名前にもなっている「イシスの息吹。」という言葉だった。
それから、私の見えない世界との交流が始まった。
初日のクラス前の瞑想からこんな状態になり、圧倒される。
翌日からは5時起床。5時半から瞑想が夜の9時まで続き、10時消灯
というスケジュールが始まる。
別の部屋に帰った旅友の身を案じながらも、眠りに就く。