インドのリトリート4
夜が明ける前から木魚のような楽器(?)で朝を告げる音が聞こえてくる。
瞑想開始10分前にも必ずこの音が聞こえてくる。
この音がトラウマを呼び起こすという参加者もいるくらい、この音をよく聞いた。
まだ真っ暗な中、瞑想室に向かい眼ボケ眼で歩いていく。
部屋からそこまでは3分ほどの距離だと思うのだが、寒くてホカロン、ヒートテック、セーター、ポンチョ、ダウンの重ね着。
ホールの中にはモクモクお香が焚かれている。
煙草の煙とこの煙と身体への影響は変わるものであろうか? と考えてしまうほどモクモクしている。
1st Meditation
薄暗い中誰からともなく瞑想に入っていく、暫くすると彼が入ってきてまたそれまでの空気感を一掃する。
今朝は、どんなところに行くのだろうと身を委ねている。
様々な方向にエネルギーが広がっていく。
そののちに下へ下へと降りていく。 言いようのない安心感。
なぜだか涙が蛇口をひねったかのように出続ける。
途中、夜が明けてきて朝日がホールに差し込んでくる。
だんだんと光が近付いてくるのを感じ、やがてその光が私の閉じた瞼を照らしていく。
太陽の光と、私の中にある光がリンクしていき、どちらの光かがわからなくなる 何とも言えない至福の時だ。
朝日の中での毎朝の瞑想は本当にすがすがしく気持のよいものだった。
2nd
6チャクラへの刺激の後に3チャクラのコードのもつれを解消する作業が続く。
果てしなくもつれている部分(糸が絡まる具合)
は容赦なくカット。
最終的にスシュムナーの詰まりを解消する作業まで続く。
自我は、ところどころで抵抗を見せバウンダリーを築こうとするが、あまりのエネルギーにその都度無駄な抵抗だということに諦め、巧妙な自我も手を緩めていく。
3rd
次は、ハートがドキドキしてきて得体のしれない量のエネルギーがそれを取り巻き、次第に流れ込んでくる。
ひたすら涙があふれる。
何が何だか分からないが、無限に広がる感じがする。
ウォーキングメディテーション
歩きながら瞑想状態を保つ。
今度は、ただ身体の痛みだけを感じる。
4th
次は、エネルギーがどこに行くのだろう?
上下のチャクラにパワフルにエネルギーが流れ込む。そのエネルギーを追っていく。
どこまでもどこまでも果てしなく広がっていく。
lunch
人がいるけれども、目を合わせず、話もしない。
一人で居ることを尊重されている空間。
この辺りから、その恩恵を感じる。
目を合わせるということは、無意識にバウンダリーを築くことであり、話をすることも無意識にバウンダリーを築くことなんだなぁ としみじみ感じる。
目を合わせず、話をしないということの心地よさ自由さを生まれて初めて味わうかも。
自分の鎧を取る方向性に没頭できる環境に感謝した。
目の前に広がる川の流れと山並み、流れる雲。
その中で、ニンジンを自分がかじる音を聞きながら、
「私はどこにいるんだろう?」とふと我に返ったりもする。
この辺りから、足だけでなく体中が痛くなって集中しようにもなかなか難しくなる。
深いところに入っていくが、身体の痛みで委ねきることができない。
これで、リトリートはもつのだろうか? と一抹の不安を覚える。
しかし、身体の痛みとともに 一日中瞑想のエネルギーの中に浸ることによって、
より深い世界に入っているのがわかる。
身体の痛みは、深いところに入るときに必ず起こる。
これも自我の抵抗の現れ。
5th
言いようのない安心感の中に身を置いていると、
彼がいくつも上の次元に存在しているのを感じる。
40人近い参加者それぞれのもとにエネルギー体があるような感じだろうか。
それぞれに応じたエネルギーが感じられる。
無数の顕現?
覚者の臨在パワーなのかなぁ。
6th
ハートが痛いほど開く。
ハートを開くとは、自らが意識的に開くものではなく、
花が綻ぶように開いていくものなのだと改めて実感。