インドのリトリート7
もう4日目、いやまだ4日目?
1st
うちなる静けさの中で早朝の瞑想が始まる。
(何故だか駄目だ~。の後には静寂が訪れる。)
彼のガイダンスももはや耳触り。
ただただ「ここ」
ゆるぎない場所。
あらゆるところにある安心感。
ゆるぎなさの中に溶け込む。
「6チャクラに波動を合わせたときに聞こえてくる この次元の周波数ではとらえることができない音や物質のぐるっとひっくり返った裏側に流れるような、美しい響き」と とても似ている崇高で美しい響きが広がる。
2nd
ガイダンスメディテーションだが、深い所に行きそうになると、実際の声が聞こえてくるのが邪魔になって引き戻される。
ウォーキングメディテーションの後に気分が変わり、
明け渡すことが容易にできるようになる。
ずっと、溶けていく。
氷が溶けてなくなるように、身体も意識も溶けてゆく。
後に残るものは、常にここにあるもの。
どこにでも。
だから、認識しようと思えばできるのだけれども、どこにでもあるし自我というヴェールで私たちが覆われているから気付かない ほどあらゆるところにあるもの。
だから、それをこのような言葉にする時には 何段階も戻さないと言葉にはならない。
3rd
愛が私の構成要素になっていようとは!
と思うほどにパワフルな愛のエネルギーが流れる。
エネルギーがシフトしてゆく、
「山本ユキ」という存在の比重がどんどん薄れてゆく。
肉体の境界線の感覚も薄れてゆく。
ウォーキングメディテーション
自分の感覚が薄れ、より大きな私の感覚が広がるなか
自然の中を歩く。
空を見上げて「鳥だなぁ。」と思うか思わないうちに「鳥の視点」でここに存在している。
上から私たちをみると蟻の行列みたいだ。
変なことをしている。
でも、ただ風に乗って羽を広げるのはなんと心地よいのだろう。
川の流れの中に獲物を見つけるのは見つけようとするのではなく、
自然に何かが反応するのだ。
「山」に目を向ければ「山」となり存在する。
「川」に目を向ければ「川」として存在する。
山も川もただそこにあるのではなく、
この波動の喜びに充ちあふれながらダンスするように存在している、
微細な喜びも壮大な喜びもすべて味わいつくしている。
「草」の上を歩けば「草」として存在する。
すべてのものが同じように鼓動している段階があり、
それはそれは言葉では言い尽くせない。
ただの物なんて一つもなく、生きている。
そして、この瞬間を味わいつくし法悦の中にいる。
どんどん広がっていく。
尽きることなく広がっていく。
凄いなぁ~。
と単純に感動する。