なぜ瞑想するのか?
なぜ瞑想を始めたんだっけ?
と思い出してみると、
最初はバーバラブレナンの「光の手」を読んで、
そこに登場した本山先生の瞑想ヨガのクラスに出たことがきっかけだった。
だから別に「瞑想」をしようと思って通ったわけではなく、
経絡体操を習おうと思っていたんだなぁ。
と思い出した。
当時、「瞑想」なんてなんだか宗教みたいだし、説教くさい感じがしてイヤ! と思っていた。
先生のハラが大きくせり出しているのをみて、
「先生、行を重ねるとそんなお腹になるのですか?」と質問し、
「そうです。」と言われ、
「あまりまじめにやるとあんなお腹になるから注意が必要だ。」と真剣に思っていた。
その後は、見えない世界を探索するためのツールとして、
そして、少しでもヒーリングの力が向上するようにと思って瞑想をしていた。
自分の中の目標が変わり、
いつの頃からか、瞑想が神聖と結びつきつくためには一番効率が良いツールだと気がついた。
日々の瞑想と共に様々な瞑想法も学び、
ずっと会いたかったアナディのインドのリトリートにも参加した。
日常とはかけ離れたインドでの体験はとても大きなものだった。
しかし、帰国して日常の中に入ると、それと同じ状態を作り出すことは難しく、
どうしても同じような体験、「それ」を追い求めるようになってしまった。
そして、過去を追い求めるのだから、同じ体験ができるはずもないことに気づいた。
あれはいつだったのだろう?
紛れもなく恩寵は常にここにあることが日々の生活の中で実感として感じ始めたのは。
それは、
自分が無意識に物質社会の中に存在するのか、
意識的に神の恩寵の中で生活するのか、
常に自分が選択できること。
それにより、何時でもどこでも「今」が至福のときになるのだ。
今までの人生の中で、これほどまでに至福を常に感じたことはなかった。
出来ることなら少しでも多くの人にこれを味わってもらいたい。
瞑想は、ここに到達する為にはとても使い心地のよいツールだけれど、
それは、瞑想しているときだけに起こるわけでもない。
常にあるものなのだ。